講師の感じた学歴コンプレックス by萩市の学習塾コジ塾

みなさんには学歴コンプレックスってありますか?

私はこれまでほとんどそれを感じずに過ごしてきましたが、最近とても意識する出来事がありました。

そこから学んだ事も含めてお話ししようと思います。

 

私が学歴コンプレックスを感じなかったワケ

 

私がすごい学歴を持っているからではありません。

単に無知だったというのと、学歴を基準にして他人を判断するなんて良くないと思っていたので、学歴=人の価値という考えを採用しなかっただけです。

実際にはこれまでも学歴コンプレックスを感じてもよさそうなことはいくつかありました。

「東京に行きたい」という願望だけで田舎者の私でも知っている名前の大学を選んで(今思うと本当に無知ですね)、その中には東京六大学も含まれていますが落ちてしまい、それでもセンター試験のみで入れる関東の大学を探して合格したので、東京に行くという希望は叶って特に不合格という痛みは感じずに進みました。

在学中に、友人が「地元でウチの大学名を恥ずかしくて言えないな…」とこぼしたことがありました。つまりは、私たちの通っている大学は皆に認められるようなすごい所じゃないよと暗に教えてくれたわけですね。おそらくその子は六大学を目指していたのだろうと思います。しかし、その時私が思ったのは「え?なんで?ウチの大学の何がダメの?気にしなくていいよ、そんなことで軽視してくる方が悪いんだから」でした。

卒業後、講師として入った進学塾は名門大学の合格者を多く輩出する開成中学・高校(当時は初耳で、そんなすごい所とは知りませんでした)に合格する生徒さんも指導するような塾で、卒業生(早稲田大学や慶応義塾大学の学生さん)をアルバイトで雇っている時期がありました。その時、イケメンの有名大学生が「公立高校の試験問題なんて、チンパンジーのアイちゃんでも解けるくらいのレベル」と言ったのを覚えています。それだけ難関校とはレベルが違うと言いたかったのだと思います、事実そうでしょう。毒舌だな~とその場の人たちも苦笑いで聞いていましたが、そんな私は、県は違えど公立高校出身です。それでも気にすることなく「へぇ~、ウチの地元では公立高校の方がレベルが高いとされているけど、都会では逆なんだな」くらいにしか思わなかったのです。

逆に地元に戻ると、六大学を出ている人と出会うのは稀で、大卒の人もあまり多くない環境となりました。するとそこでは「あの人は、○○大学(○○高校)卒だけど、仕事ができんのよ」「大卒なのに、そんなのもわからないのかね?」的なことを言ってる人(←上から目線ではなく、下からやっかみ目線ですね)がいることを知りましたが、これも意に介さず。

つまり、学歴≠人の価値で、学歴の上の人が「君らと違ってすごいんだぞ」と言おうが、下の人が「大卒がなんぼのもんなの」と言おうが、気にしないスタンスだったのです。

 

そんな私が感じた学歴コンプレックス

 

最近、慶応義塾大学法学部卒の方とお近づきになりました。しかも、2人も。(お2人ともビジネス上の方ですが、生徒さんの保護者様ではありません)それで…遅ればせながら「これが学歴コンプレックスってやつか…?」と思う瞬間がいくつかあったのでご紹介します。

1つめ(1人目)は、私が中学生の頃に使っていた英語の辞書を見せた時。

私が地元で塾講師を始めて驚いたのは、“いかに中学生が辞書を引かないか”でした。自分の経験から辞書を引くのは当たり前だったので、生徒さんがわからない単語が出てきてもそのまま空欄で平気。いざ辞書を引くように指示すると1単語調べるのに5分もかかったり、あからさまに面倒くさそうな態度を見せたりするのが信じられなかった。そこで「コジ塾では、英語の時間にちゃんと生徒さんに辞書を引く練習をしてもらっているんです。これ、私が中学生の時に使っていた辞書なんですけど、こうやって自分の辞書なら線を引いたりできるよって教えてます」と言って見せたら、

「中学生の時ですか?!キレイじゃないですか?!僕の辞書は中1の時に引きすぎてぶっ壊れて新しいのを買いましたよ!」と返ってきたのです。

私の辞書は中学3年間ずっと使用していた物でした…テストでは結構100点取っていたんですよ?学校の休み時間も塾の宿題してたんですよ?…でも、ぶっ壊れなかった…この人はどれだけ調べたんだろう…と思いました。

2つめ(2人目)は、受験勉強のエピソード。

「僕はどうせ大学に行くならいい大学に行けと親に言われたので、高校ではもちろん部活なんかやらないですし、体育祭や先輩の卒業式なんて勉強に関係ない行事には出ないで、1日9時間以上いかに集中するかを考えて勉強してましたよ」

え?学校行事に出ない??勉強のために??一日9時間??進学校なのに文芸部と剣道部を自らかけ持ちしたり、クラスマッチのバレーで下手くそゆえに他の子に出番を譲るはめになって人知れずショボくれたり、学校帰りに友達と海を眺めてぼーっとたたずんだりしていた私って一体…やっぱり違うんだ…と思いました。

「目指した所、到達した所が違うって、こんなにも過程に差があるのか」と、これが私の感じた学歴コンプレックスです。

 

一般には、自分が相手よりも学歴が低いことで損をしたり、軽蔑されたり、何も起こってないのに単に劣等感を抱いたりして感じることの多いコンプレックスだと思うのですが、そんなの関係ないじゃーんと思っていた私に突き刺さったのは、その人の目標の高さとそこに到達するまでの桁違いの努力のすごさでした。だって、同じだけ学生時代や受験勉強を経験しているのに中身がこんなに違うなんて、テレビなどで聞いたことのある想像上のそこまでする~?の努力を実際にしていた人に出会うという経験をして、もう戻れない変えることのできない過去の努力の違いが学歴に影響しているのだと実感してしまったのです。

 

『私たち(教える側や教わる側、勉強をして成果を出そうとする人たち)がやるべきこと』

 

『まずは、違いを知ること』

勉強に対して、実際にどれだけの興味関心を持ち、どれだけの努力を当たり前としているのか?

よく、塾講師の性質上「先生は学生時代いっぱい勉強しましたか?」と聞かれ、自分の学生時代の努力を話すと「えー、そこまでできんわ」と言う生徒さんが多くいます。したくないからしない子供さんを家で見ている親御さんは「ウチの子全然勉強しないんですよー。やり方さえわかれば、楽しくなってやると思うんですが」とおっしゃいます。その可能性もあるので否定はしませんが、すでに学校で勉強に触れているのに興味が出ていない&やる気になっていない事実はあるわけですね。

では、塾講師になった私はというと、保育園の頃にお友達に誘われて行った公文の体験で自分がやったプリントに花マルをもらったことが嬉しくて勉強を始めました。ただ鉛筆で線を引くだけのプリントです。わかる・わからないのレベルではありません。そしてやり方がわかる・わからないのレベルに達した頃にはすでに楽しいというよりは努力と忍耐力に移行していたように思います。本当は遊びたい、ゴロゴロしたい、でもテストで良い点を取りたいから今頑張ろうとか、宿題を友達に見せてと言われることはあっても自分はちゃんとやっていこうという忍耐力です。一人でやっても理解できない時は職員室に聞きに行くという努力もしました。生徒さんからよくテスト週間中に家族でお出かけしたという話を聞きますが、私は遊びに行った記憶はありません、本当にテスト勉強をする時間として捉えていたからです。

このようにして、自分にはこれが当たり前だけど、他の人はどうであるのか、特にそれを専門にしている人の話を聞くのは大きな発見になります。私が慶応卒の方に会った時のように、自分以上に興味関心を持って、努力をしている人にはその人の当たり前があって、それを聞くことで新しい世界が見えてきます。時には自分の甘さを実感して衝撃を受け、何だか責められているようで耳をふさぎたくなることもあるでしょう。けれど、そこに素直に耳を傾けて違いを知らなければ、きっとそこで終わりなんです。自分の当たり前を基準にすることでしか、物事に取り組めなくなる。コンプレックスを感じるくらいの人に出会ったら、実はラッキーなのかもしれません。

 

『そして、選択すること』

違いを知った後は、自分が望む結果とそのための努力のレベルをじっくりと考えてみましょう。ここを勘違いすると、イターイ結果が待っています。

私も慶応卒の方の話を聞いてすごいと感じる反面、思ったことがあります。それは「そこまでする~?いやぁ、私はいいかな(無理だな)」です。みなさんも同じようにあると思います。なぜかというと、努力には犠牲が付き物だから。

例えば私の場合なら、どう考えても勉強に関係ないからという理由で学校行事に参加しない選択はできなかっただろうと思います。異端児扱いを受けて、その分勉強するんでしょ?という周りからのプレッシャーに耐えてまで、欲しかった結果があの時あったのかと自問すると、残念ながらなかったです。

けれど、大学を受験する気があるのに高校時代に部活をする必要があったのかなと反省することは今現在もあるので、あの頃に戻ったのなら部活に割いた時間を勉強に当てることはできるかもしれません。それでも、小説や詩を書くことに興味があった自分が、文芸部で自分の作品を発表する場を持てたことは貴重な経験だったと思いますので、その時の自分が何を一番望んでいるのかを考えて、できる努力とできない努力の振り分けを自分ですることは大切です。

自分で振り分けをすると、自分の到達点を見誤らずに済みます。結果を出している人ほどの熱意も持てず、行動もともなっていないのに、「どうして私も進学校に入って受験勉強をしたのに慶応に入れなかったの?!」と本気で言っていたら…イタイってことが真実を知って自ら選択したならわかりますよね。違いを知ろうとしない人や知ってもなぜか自分の努力とは比べてみない人に限って「たぶん、入った高校が悪かったんだよね~。田舎だし、最近レベルも昔に比べて落ちてるっていうしさ~」と環境や他人のせいにしたさらにイタイ事を言うはめになるのです。

塾に通っているみなさんも(生徒さん本人も、それをサポートし導く親御さんも)本当はどこまで目指していて、どれだけの努力&犠牲なら払えるのか考えて勉強に取り組むと良いと思います。講師は勉強のプロで、生徒さんに学力アップをしてほしいので、あらゆる努力の方法を提示します。けれど、どれをやって、どれをやらないのか、選択するのは生徒さんです。塾に入ったのも自己選択の結果なのですから、入ったら他に選択をしなくても、逆に頑張らないという選択をしたとしても、トントン拍子で成果が上がる一方だと思い込むのは間違いです。常に望む結果と努力のバランスが取れているのか見極め、努力による犠牲と怠慢によるリスクも考えた上で、もう少し努力してもいいかなと感じるけれど自分に甘くなってしまう時は、自分がすごいと認める人の話に耳を傾けてみましょう。自分から勇気を出して聞いてみると、意外に惜しみなく話してくれるものです。

先ほど話した慶応卒1人目の方は、私の高校の先輩ですが、その後詳しく話を聞くと『入試に関係のない授業では、耳栓をして受験に必要な科目の勉強をしていた』ことが判明しました。いやー、考えもしなかった努力が出てくる、出てくる。

 

自分から聞かないとわからない理由の一つとして、達成してしまった人は、にっこり笑って生きているというのがあります。何のために、人は努力をするのか。自慢したいからではなく、自由や楽を手に入れるためです。自分が困らないように努力するのですから、それを手に入れた後は、楽をして、自由で、ただただその時を満喫している様子なので、まさかそんな努力をしていたとは想像もつかない顔をしているものなのです。

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